読み飛ばし用リンク
画像は、「心をつなぐ 友情人形ものがたり」にて、斎藤俊子様が描かれたものを使わせていただいております。
青い目の人形とは、1927年(昭和2年)に、アメリカの子どもたちなどから日本の子どもたちに贈られた人形のことです。
全部で12,739体が贈られました。
その人形は、寝かると目をつぶったり、お腹を押さえるとママー」と泣いたりする金髪の人形だったので、当時の日本の子どもたちはとてもびっくりしたそうです。
当時、アメリカの人の中に、アメリカにいる日本人をよく思わない人たちがいて、日本とアメリカの仲が悪くなりそうでした。それを心配したのが、20年以上日本で生活をしたことのある、アメリカ人 シドニー・ルイスギューリック博士でした。
ギュリック博士は、日本とアメリカが仲良くなるために、「未来の国民である子どもたちが、お互いを知って仲良くなることが必要である。」と考えました。
そこで、他の人達とも相談して、「日本の子どもたちに人形を贈ろう。」とアメリカ全土に呼びかけました。この呼びかけに、約260万人の人達が協力したそうです。
アメリカの子どもたちの中には、わずかずつお金を出し合ったり、バザーや野外劇などを催して自分たちの力でお金を準備したりした子どももいたそうです。
こうして、1927年(昭和2年)、青い目の人形が、「友情の人形」として日本に贈られたのです。
宮城県に届いた「青い目の人形」は、221体でした。県内の小学校や幼稚園・保育所などに贈られました。
また、日本からも答礼人形として、58体の市松人形がアメリカに贈られました。宮城県からは、「ミス宮城」が贈られました。
しかし、ギュリック博士たちの願いもむなしく、1941年(昭和1年)、日本はアメリカに戦争をしかけました。そうなると、日本国民みんながアメリカを憎むようにさせられたり、アメリカの音楽や英語も敵の国のものなので禁止されたりしました。
「友情の人形」として日本に贈られた「青い目の人形」も、「憎い敵だ」「許さない」などと攻撃の的になっていきました。そうして、かわいい人形たちは、子どもたちの見ている前で焼かれたり、壊されたりするなど、処分されていったのです。
宮城県に贈られた221体のほとんどが、こうして処分されていったのと思われます。
このとき、この「青い目の人形」を命がけで守った人達がいます。
お寺の住職さんが、「人形には罪はない。」と言って隠し、守り抜いた人形もあります。
そのおかげで、全国で約300体、宮城県では10体の存在が確認されています。
上沼小・米谷小・広渕保育所・川渡小・三本木小・村田第四小・金山図書館、そして桃生小学校で大切に保存されています。
昭和48年 桃生小学校の倉庫から発見されて、受け継がれてきました。
詳しくは、下記関連リンク「桃生小メリーちゃん」をご覧ください。