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新田御蔵場跡

更新日:2020年12月11日

新田御蔵場跡

 江戸時代、新田西町の上に仙台藩直轄の御蔵がありました。この蔵には藩直轄地の年貢米などばかりでなく、本吉郡南方8ヶ村、桃生郡12ヶ村、合計20ヶ村の御買米も収納されました。
 収納された米や穀類は、北上川岸に多くの人馬によって運ばれ、ここで平田船や高瀬船に積み込まれて川を下り、石巻河口まで運ばれてここで更に天当船(他の記録では千石船とも)に積み替え、江戸に本石米として販売していました。この御蔵場も、川に帆前船が行きかい、陸では人馬の往来が激しく、積み出しや荷揚げで大いににぎわったと伝えられています。
 この河岸を開いたのは新田の市郎平という人で、寛永年間(1624-1643)新田開発の折に物資を供給するために船場を開いたので、河岸の名前を「市郎平河岸」といったそうです。

 明治6(1873)年に新田小学校が創設された時、藩政廃止で空庫になっていた御蔵場の建物を校舎としました。その後、公会堂・公民館分館・青年会館・飯野川高校定時制分校が建てられましたが、現在では桃生新田保育所として幼児教育の場となり、当時の面影をしのぶべくもありません。

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「御蔵場跡」碑柱
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現在は桃生新田保育所に