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佐々城朴安

更新日:2020年12月9日

佐々城朴安(ささき ぼくあん)1785年ー1861年

 江戸時代、天明5年(1785年)に、当時の中津山村新田に生まれました。
 朴安の先祖は葛西氏の家臣でしたが、葛西氏が豊臣秀吉によって亡ぼされた後、岩手の舞草から旧河北町皿貝に移ってきました。その後伊達政宗によって大野谷地(高須賀、神取、新田など)の開墾が始まると、新田へ移住しました。朴安の先祖はたくさんの田畑を起こし、蓄財して、伊達家へも献金しました。中津山新田に移住した先祖から6代目が朴安です。
 朴安は初め新策と言って、とても頭が良く、小さい時から医師になろうと勉強したようです。当時の医学は漢方が主なので、朴安はたくさんの草木を育てました。(薬草園跡が今でも新田の生家に残っています)
 朴安は名医として有名になりました。この頃仙台藩では医学校を開くことになり、文政2年(1819年)朴安は薬草園長、更に助教として招かれました。朴安は、初めは漢方医でしたが、後に婦人科医となり、お城の姫君たちを診察しました。仙台で初めて人体解剖が行われた時は、解体図『解体補義』を書き残しました。
 また、当時仙台藩では大須浜(雄勝)で捕鯨漁を行うことになり、朴安は「捕鯨業取開方」に任命されました。ペリーが浦賀に来た頃、神取山に藩営で「瀬戸焼」の事業を起こし、「神取御殿山焼」などと名を付けて焼き物を行っています。朴安の本業は医師なので、漢方医として『救荒略』という本を書き、飢饉の時に食べられる草木をその食べ方まで書いて領内に配布しました。また救急薬の処方書として『救民単方』を書きました。
 朴安は仙台にいてもいつもふるさとを思い、新田の祖母や父母弟妹に心を寄せています。珍しい菓子などが手に入るとおばあさまへと届けさせています。
 何事もまじめに前向きに考え熱心に取り組んでいます。
 文久元年(1861年)3月数え年78歳で、仙台で亡くなりましたが、遺体はふるさとの香積寺吹上墓地に葬られています。

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神取御殿山焼の跡地