石巻市中沢遺跡

【調査要項】

1.遺跡名中沢(なかざわ)遺跡(いせき)(宮城県遺跡番号:74012

2.所在地:石巻市給分浜清水川地内

3.調査期間:@試掘調査 平成24年6月25日〜7月4日

       A事前調査 平成241029日〜平成251018

4.調査対象面積:約20,000u

5.調査主体:石巻市教育委員会

6.調査協力:宮城県教育委員会

 

【調査に至る経過】

 平成24年度において、石巻市給分浜小寺地区における高台移転のための「防災集団移転事業計画」が策定され、施工地点が埋蔵文化財包蔵地に関わっていたため、同年6月から7月にかけて、宮城県教育庁文化財保護課により試掘調査が実施された。調査は、遺跡が立地する丘陵部尾根と北・南斜面に20本のトレンチを入れる形で行われ、2カ所の遺物包含層とピットを確認し、縄文前期から中期にかけての土器や剥片石器、礫石器が出土した。当発掘調査は、これを受けて同年10月より開始したものである。

 

【遺跡及び周辺の概要】

(1)位置と地形:中沢遺跡は、牡鹿半島南西部に位置し、石巻湾に面した「給分浜」を見下ろす標高約27mの、東西に細長い舌状丘陵上に立地している。給分浜から北側に隣接して広がる大原浜までの浜に面した丘陵は、比較的なだらかな緩斜面が続く地形である。遺跡周辺の丘陵地を形成する基盤層は、花崗岩の礫や砂や泥が堆積したものと言われており、それらを覆う土壌は、粘板岩上に、洪積世から風化堆積して形成された黄色の粘質土壌で、当遺跡の地山を形成している。ここには、比較的広範囲に渡って風化が進行した岩盤(所謂アマ岩)が露出しており、調査区の丘陵尾根部から検出された遺構は、これを掘り込んで構築されているものも多い。

(2)周辺遺跡の状況:中沢遺跡が見下ろす、給分浜、大原浜を含む南北幅約2.5kmの小湾は、「表浜湾」と呼ばれ、南西部に隣接する数百m程の岬の西側には「小渕浜」と呼ばれる細長い小湾が立地している。遺跡周辺約1kmの範囲内には、これらの小湾に面した丘陵上に、当遺跡を含めて6カ所の遺跡が近接しており、このうちの5カ所(中沢遺跡、小寺遺跡、羽黒下遺跡、給分浜貝塚、小渕遺跡)からは縄文時代の遺物が採集されている。中沢遺跡は、昭和50年代には縄文前期の遺物が採集され、複数の遺物包含層の存在が示唆されていた。また、遺跡から500m以内に立地する、南側に連なる丘陵部緩斜面の小寺遺跡や羽黒下遺跡からも同時期の遺物が採集されている。

第1図 中沢遺跡の位置と周辺の遺跡

 
 


【調査の概要】

1.調査の状況

(1)平成24年度調査:総調査対象範囲の南側中央部、北東側、及び南東側を一部調査し、縄文時代の竪穴住居跡、炉跡、土坑、ピット群、遺物包含層、古墳時代から平安時代にかけての竪穴住居跡を検出・調査し、4カ所の遺物包含層から大量の遺物が出土した。

(2)平成25年度調査:主に、前年度調査地域以外の対象範囲全域を調査し、新たに縄文時代の竪穴居跡2軒、建物跡10棟、ピット群と3ヵ所の遺物包含層等を検出・調査し、縄文時代前期のものと考えられる大量の遺物が出土している。

2.発見された遺構の状況

(1)調査区の配置

 調査区は、東西に細長い舌状丘陵のほぼ全域に及んでおり、調査区と調査年度は次のとおりである(第2図)

@   南西部(7・9区)、及び北東部(15-1区、11-3区)…平成24年度調査(7・9区の一部は平成25年度調査)。

A   南東部(10区)…平成24年度〜25年度調査。

B 中央部(10区拡張区)、及び北西部(11-1区西・東)…平成25年度調査。

(2)南西部(7・9区)の状況

検出された主な遺構は、丘陵尾根部西側からの複数の竪穴住居跡、建物跡及びピット群と、南側斜面の遺物包含層、屋外炉及び古墳時代後期のものと考えられる竪穴住居跡である。丘陵西側端部については、四本の試掘トレンチを開けたが、遺構は検出されなかった。また平成25年度に、さらにその西側、及び南側の斜面を試掘したが、遺構・遺物は発見されなかった。

〔竪穴住居跡(SI13SI29)〕調査区北西隅において、東西方向数列に柱穴が配列し、その外側に周溝を配する住居跡を検出した。北側から二本の周溝が検出されたが、それらの一部分が並行していること、南北の柱穴の配置及び切り合い、平面形態などから、少なくとも2軒の竪穴住居跡が重複していると判断した(SI13SI29)。壁や床面は判然としない。SI13は、長さ15m以上、幅約6mを測り、南側からも周溝が検出された。住居跡に伴う柱穴が北東隅で南側に屈曲するため、全体の形状は長楕円形であったと判断される。中央部から焼面の痕跡を検出したが、残存が悪く、二軒のどちらに伴うものかは判然としない。SI29は、SI13の中央部から東側にかけて検出されたもので、東側からも周溝の一部が発見されている。住居跡の西側の状況が判然としないが、北側周溝の湾曲などから、現段階においては、長さ10m以上、幅約6mの長楕円形を呈するものであったと判断される。これらの住居跡の主柱穴の深さが50p程度のものが多いが、1m近くに及ぶものも見られる。特に東側の柱穴や周溝は、岩盤を丁寧に掘り抜いて構築されているものがある。柱穴の一部からは、大木4式段階のものと考えられる遺物が出土している。現段階における両者の新旧関係は、SI29の柱穴の一部をSI13の柱穴が切っているため、SI29の方が旧となる。この他に、調査区東側において竪穴住居跡の周溝と柱穴の一部が検出されており、長軸(北東―南西)方向で10mを測るものである。また、平成25年度調査段階において、この住居跡の北東部に重複して、新たに住居跡の一部が検出されている。

写真1  79区の状況(北東から。右上方がSI13SI29

 
〔建物跡〕:平成25年度段階において、北側に隣接する11-1区との関係から当調査区の再精査を実施したところ、新たに4軒の建物跡が検出された。そのうちの2軒はSI13SI29と重複している。残りの2軒は、調査区中央部北寄りの、ピットが集中する地点から検出されたものである。これらの建物跡も含め、79区の東側に構築されている建物跡等の柱穴や周溝、ピットには、岩盤を丁寧に掘り込んで構築されているものが見られる。また、これらのピット群の一部からは大まかに時期がわかる土器片が出土しており、概ね大木4式期の範疇に収まると考えられる。

〔遺物包含層(SX04)〕:調査区南側斜面に幅約40mの広がりを持ち、そこから南南東方向へ及ぶ小谷内で、奥行18mに渡って検出されたもので、堆積土は約1.5mの厚さを持つ。表土層直下の土層は大きく5層に分けられ、上部から、大木5910式を主体とする縄文前期後葉から中期以降にかけての土層、大木4・5式を主体とする層があり、その直下に薄い火山灰層を挟み、上川名U式及び大木1〜2b式を主体とする層となる。出土遺物の中には、土器や石器の他に、抉状耳飾や石刀・石剣類といった祭祀関連具も含まれており、長期的な生業を営んでいた集落の要素が見られる。

〔炉跡(SX19SX22)〕:SX04の斜面部分の調査段階で、4箇所の炉跡と考えられる焼面を検出した。

そのうちの3基(SX19SX21)は土器埋設炉である。埋設土器は縄文時代中期と考えられ、周辺の精査

の結果、住居に伴うものではないと判断したため、屋外炉の可能性が高いと考えられる。

〔竪穴住居跡(SI12)〕:調査区中央西寄りの地点において、SX04を切って構築されている古墳時代後期の竪穴住居跡で、一辺が6m程の規模を有し、隅丸方形を呈する。斜面上に構築されており、東・西側の一部と南側の壁は検出されなかった。北側の壁は、岩盤を掘り込んで構築されており、50p以上の壁高を有し、内部には壁に沿って周溝が検出された。北東隅付近の床面直上からまとまった個体の土器が出土し、中央東寄りの部分から炉跡を検出している。出土遺物から、5世紀前半頃の所産と考えられる。

(3)北東部の状況

写真2 SI12(南から)

 

 
@15-1区:丘陵北東隅の斜面に位置し、遺物包含層や石組遺構(現段階では機能不明)が検出されている。

SX02

 

 

SX03

 

 
〔遺物包含層(SX03)〕:調査区北東隅は、北東側へ下降する緩斜面である。特に東側は調査区外より10m程落ち込む急峻な崖となっている。SX03は斜面に沿って東北東方向へ約18mの距離まで広がり、調査区外へ及ぶ。調査区際での最大幅(北北西部分)は約30mである。堆積土は最大で約1.5mの厚さがあり、表土層直下から上層(約40p)、火山灰層(約20p)を挟み、中層(約60p)、下層(約30p)となる。上層は大木4、5式を主体とするもので、中層上部からは大木1〜2b式の出土が多く、下部は1式が主体となる。各所に大型の土器片や石器、礫などが集中して出土する地点がある。また中層下部からは、地山起源と考えられる、黄褐色シルトと焼土や炭化物で構成される土が互層となった整地層が検出されており、この内部からは、直径約2.5mの範囲において、強く被熱したと考えられる地点(焼面)が発見されている。平成25年度の調査終了後に、この焼土の一部を試験的に水洗したところ、獣骨や魚骨と見られる細片がまとまって発見されている。また、包含層東側においても、火山灰層直下から獣骨と考えられる骨片や、貝の細片を含む土などが発見されている。下層は、上川名U式及び大木1式を主体とし、下部に及ぶに従い出土する遺物の量は希薄となる。

写真3 15-1区(左上方)及び11-3区(右方)の状況

 

 
A11-3区:調査区は、その多くを遺物包含層(SX02)で占められているが、その他に建物跡を検出し調査を行った。

〔遺物包含層(SX02)〕:東西幅約17m、南北約20mの遺物包含層で、北側は比較的緩やかな斜面に沿って調査区外へ及んでいる。完掘段階で北側に傾斜した擂鉢状の谷が現れ、包含層はこの内部に堆積していたことが判明した。北側最深部における表土層下の土層は大きく4層に分けられ、旧表土層、大木4・5式等を含む上層(約30p)、大木4式を主体とする中層、上川名U式・大木1式を主体とする下層となる。包含層の中央部西寄りの地点では、中層中に15-1SX03で検出されたものと類似した整地層が発見されており、黄褐色シルトと炭化物・焼土層との互層であり緻密である。SX02においても、被熱が認められる焼面や、焼土や比較的大型の土器片・石器等が、同一層面からまとまって出土する遺物集中地点が各所で発見されている。

写真4 SB31(南南東から)

 

 

 
〔建物跡(SB31)〕:SX02の完掘後に検出された建物跡で、黒褐色を基調とする土に黄褐色の小ブロックが混入する特徴的な埋土であり、中層の土を堆積土としている可能性があったが、柱列として明確に確認できたのは包含層基底部が露呈してからである。北北東方向に三列の柱穴が5基並び、南東側2列間の間隔がやや狭い。長辺は約8m、短辺は約4mで、複数の柱穴から縄文土器片(縄文地紋のものが一部あるのみだが、前期の可能性が高い。)が出土している。この他、連接する可能性がある柱穴が検出されている。

(4)十和田中掫火山灰について

 調査地点が立地する小丘陵の各斜面に、灰色の火山灰と考えられるものが発見されたのは試掘調査の段階からである。これが、平成24年度の発掘調査に入り、表土掘削の時点で79区の南側斜面から初めて層として検出された。また、15-1SX03の南北トレンチからも検出され、分析(偏光顕微鏡による観察・屈折率測定・火山ガラス主成分組成分析)の結果、約6,000年以前に十和田火山から噴出した十和田中掫テフラと判明した。一方、10区からは、この火山灰層を含む遺物包含層中に掘り込まれている古代の竪穴住居跡の覆土中に火山灰が観察され、同じく分析の結果、10世紀に降灰した十和田aテフラであることが判明した。

(5)南東部(10区及び10区拡張区)の状況

丘陵南東部の平坦面から斜面にかけての地点であり、縄文時代前期の遺物包含層や建物跡、ピット群、古代の竪穴住居跡等が検出されている。

〔遺物包含層(SX10)〕:丘陵の南東部斜面に検出された包含層で、幅50m、奥行38m以上、土層の厚さは最大1.7mで、今回の調査では最大のものである。包含層中の中央部・西側・東側にそれぞれトレンチを掘削し堆積状況を見た結果、土層は、上層部分は、検出段階の斜面である北西―南東方向に入る谷に沿って堆積しているが、下層はほぼ南側に向かって斜面を下降していることが判明した。また南東側は調査区の南壁外に及んでいる。土層は大きく3層に分けられ、上層(1層:古代)、中層(2a層:大木4式を含む、2b層:大木2b式主体)、下層(3層:大木1式主体、上川名U式を含む)となり、2b層中に火山灰層(十和田中掫テフラ)が存在している。また、SX10からはこの火山灰が面的な広がりを持って堆積していることが観察された。さらに中層には、黄褐色土層が観察され、人為的な行為によって生じた土がもたらされた可能性も考えられる。中層から下層にかけては、被熱した焼面や比較的大型の土器片、礫などによって構成された遺物集中地点や、多量の剥片やチップが廃棄された跡とみられる地点等が検出されている。また、包含層基底部から検出された小ピットは1000個以上に及び、大木1式や上川名U式の特徴を有する土器片が主体として出土している。

〔建物跡(SB65SB8082他〕:10区北西部及びその北西側の拡張区から検出された建物跡で、楕円形または多角形状に柱穴を配する。SB65から縄文土器の小破片が出土している。

写真5 SI27東側土層断面(北東から)

 

 

 
〔竪穴住居跡(SI2325SI27)〕:3軒とも遺物包含層SX10を掘り抜いて構築されている。SI23は北辺と竈部分のみ検出されたもので、北東隅部分に周溝が見られ、一辺が約2.5mを測る比較的小規模なものである。また、竈の袖脇から須恵器片が出土している。SI25は調査区中央部から発見されたもので、一辺が約4mのやや不整な方形を呈し、床面の北側と南側から焼面が発見されている。SI2710区南西縁辺部に近い斜面から検出され、東西約6m、南北の残存長約4mで、南側の床面及び壁は検出されなかった。西壁中央北寄りに竈の煙道が検出されたが、袖等が取り壊されていた。一方、床面直上の遺物中に鉄滓が含まれ、南西部の床面数か所には被熱痕跡が見られ、竈を伴っていたと考えられる構築時当初とは異なった様相を呈する。周溝は北壁及び東壁に沿って構築されており、覆土下層から厚さ5p程度の灰白色の火山灰層が観察され、分析の結果、十和田aテフラであることが判明した。

(6)北西部(11−1区)の状況

 主な遺構として、調査区中央部から北側縁辺部にかけて検出された遺物包含層(SX01)、北西隅に検出された遺物包含層(SX60)、及び南端部から中央部にかけて検出された大型建物跡(SB94SB107)がある他、SX01内部及び周辺から検出されたピット群がある。

〔遺物包含層(SX01SX60)〕:SX01は、調査区中央から北東部にかけて検出され、南北最大幅約30m、東西最大幅約50mの規模を測る。堆積層は、調査区中央部から北東に向かい、北側端部の谷から調査区外へ及ぶ。表土層下の土層は大きく二層(2・3層)に分けられ、それらがさらに幾つかの層(2af層、3a、b層)に細分される。2ab層は、大木3、4式を主体とする層である。その直下に火山灰層(2c層)があるが、大木3式はこの直上から出土している。2d層は部分的で判然としない。2e層は黄褐色を呈し、10SX10と類似した堆積層の可能性がある。2e層下部は焼土や炭化物を多く含む。2e層から3a層は大木1式や上川名U式が主体となり、3b層は遺物が希薄となって地山へと至る。特に2層は包含層中において分布範囲が異なる。灰白色の火山灰層は面的に広がって検出された地点があり、10区よりも厚い堆積を呈する。この火山灰は、現在分析中だが、専門家による観察では十和田中掫テフラの可能性が高いとのことである。SX60は調査区北西隅に検出され、北北西側に向かう小規模な谷に向かって落ち込み、調査区外へ及び、南北約17m、東西約11mと小規模である。表土下の堆積層は大きく三層に分けられ、上層の黒褐色土は古代以前のもの、その下部には大木4式を主体とする層、さらにその下に遺物を含まない層があり、地山となる。

写真6 SB94全景(上が北)

 

 

 
〔建物跡(SB94SB107)〕:11-1区の南端部、すなわち79区北端部と接する丘陵尾根西端付近に検出された大型の建物跡である。長軸は真西からやや南側にずれており、長辺約23m、短辺は約7mを測る大型のものである。長軸方向の柱穴は5列で構成されており、北・南側の最も外側から検出されたものは小型である。柱穴に複数の切り合いが認められるため判然としないが、短軸方向の柱穴列は18列以上あり、比較的大型のものと小型のものが交互に連なる。西端部と東端部、及び中央西寄り、東側の列間に他の部分より幅広な箇所が観察される。柱穴の深さは、最も深いもので約80pあり、主柱穴に伴うものである。浅いものは外郭の小型のもので10p程度である。埋土は地山を使用したと考えられ、黄褐色で固く締まっており、検出や分層が非常に困難であった。柱穴内の柱痕は当初、大部分が抜かれたものと判断されたが、詳細な観察の結果、抜きに伴う土の崩壊が無く、掘方埋土との色調や混入物の差異により、抜かれておらず、数千年の間に埋土と同化したものもあると考えられる。特に、丘陵尾根部に位置する地点から検出された柱穴にはこのような状況が観察されるものがあり、7・9区において検出された竪穴住居跡や建物跡などにも同様なものが見られる。SB94の複数の柱穴から大木4式と考えられる土器片が出土している。SB107SB94の北側約7mの地点に検出され、主軸が真西からやや北にずれている。長軸約22m、短軸約7mの規模で、四列から五列の主柱穴を連ね、周囲には小型の柱穴が長楕円形に巡るものと考えられる。また、柱穴内から羽状縄文を持つ土器片が出土している。

〔ピット群〕:SB107からSX01間、及びSX01の東側、西側に密集したピット群が広がっており、今後の検討の結果、連接して建物跡になる可能性が高い。

3.出土遺物

 今回の調査では、整理箱にしておよそ1,000箱以上の遺物が出土している。それらの大部分は縄文時代前期のもので、6カ所の遺物包含層から出土したものが大半を占める。最も多いのは土器であり、主に上川名U式から大木4式までのものが多く、大木5式から縄文中期以降までのものも含まれる。多くは、各土器型式に特徴的な文様と構成を有しているが、それらの範疇外と考えられるものも目立つ。また石槍・石鏃・石匙等の各種剥片石器や、打製・磨製石斧、石皿・磨石類といった礫石器の出土量も多い。剥片石器には、所謂「押出型ポイント」等、該期に特徴的なものも含まれる。さらに、土偶や玦状耳飾、男根状石製品や線刻礫といった祭祀関係の製品も出土している。

 

【まとめ】

@    今回の調査地点から検出された遺構の主体は、縄文時代前期前葉から中葉(上川名U式期から大木4式期)である。

A    調査地点が立地する舌状丘陵の西側(79区から11-1区)から検出された竪穴住居跡や建物跡は、丘陵西側平坦面端部の地形に沿って弧状に並ぶ。この内、SI1329SB94、また79区における竪穴住居跡や建物跡の時期が、概ね大木4式期の範疇に収まる可能性があることから、何らかの計画性を持った配置である可能性が強い。丘陵尾根の中央部は岩盤が露出しており、ピットなどの遺構が希薄である。東側から検出された建物も含めて、これらの遺構の長軸の一方が、この尾根部中央を指向しており、当該期の集落全体にも何らかの計画性が及んでいた可能性がある。

B    調査区東側及び南側の縄文時代前期の土層中から検出された火山灰は、分析の結果、十和田中掫テフラと判明している。また、北側(11-1区)から発見された火山灰も、同時期に比定される土層中から検出され、専門家による目視観察でも上記火山灰である可能性が高いと判断された。また、その層中、もしくは直下に大木2b式土器を主体とする層が検出されるという共通性を持っている。

C    調査結果の詳細な分析については、今後の整理作業に委ねられるが、当調査地点における集落は、SX10底面から検出された多数の大木1式期におけるピットの存在や、SX03中層における整地層、及び焼面の存在から、既に当該期において形成されており、採集や漁労による生業が営まれ、それが十和田中掫火山灰降灰後も長期的には断絶することがなく、大木4式期前後の時期に大型の建物配置を計画的に実施していくと推察される。