寄稿文

石巻市長からのメッセージ

発刊にあたって

二〇一一年三月十一日午後二時四十六分、 三陸沖を震源とするマグニチュード九・〇の大地震が東北地方をはじめとする東日本全域を襲いました。 その後に発生した巨大津波により太平洋沿岸の地域は壊滅的な被害に遭い多くの尊い命が失われたほか、 数万人という規模の方々が平穏だった日常生活から一転し、長く辛い避難生活を余儀なくされました。
石巻市では死者三五四七人、行方不明者四二八人、 住宅被害五六七〇一棟(二〇一五年十二月三十一日現在/宮城県発表)という甚大な被害に見舞われ、 東日本大震災で最大の被災地となってしまいましたが、 その直後から国内をはじめ世界中のたくさんの方々から温かい御支援をいただきました。 そのおかげで被災したまちは活気を取り戻しつつあり、現在は更なる復興に向けて着実に進んでおります。 この震災によって失ったものはとても大きかったのですが、震災によって得たものや気付かされたこともあります。 その一つが「ふるさとの大切さ」を再認識したことでした。
この本は、ふるさと・石巻が歩んできた歴史と当時の人々が注いだ情熱や想いを「萬画の国・いしのまき」らしくマンガで表現しました。 「地域の歴史」という難しいテーマにも関わらず担当いただいた漫画家の先生方の工夫を凝らしたストーリーマンガにより、 親しみやすく分かりやすい内容で、地元の人はもとより石巻に縁の無い方々にも楽しみながら読んでいただける作品に仕上がっています。
石巻市は、「東日本大震災最大の被災地」として全国的・世界的に知られるようになりましたが、 世代や国境を超えた親しみやすさとわかりやすさを兼ね備えた”マンガ“を活用し石巻の魅力を存分に発信していきたいと思っております。

石巻市長 亀山 紘

石巻市概要

石巻(I S H I N O M A K I)

石巻市は、江戸時代には北上川の水運を生かした交易のまちとして、 明治時代からは金華山沖漁場を背景に漁業のまちとして栄え、 一九六四(昭和39)年には新産業都市の指定を受けて工業都市としても発展を遂げてきました。
一九八九(平成元)年には石巻専修大学が開学。 また二〇〇一(平成13)年には石巻市が進めるマンガランド構想の中核施設となる石ノ森萬画館が完成。
そして二〇〇五(平成17)年4月1日、旧石巻市・河北町・雄勝町・河南町・桃生町・北上町・牡鹿町の1市6町が合併し、 新たな「石巻市」としてスタートしました。

交易(こうえき)のまち

石巻市は、東北最大の一級河川である北上川河口に位置し、 人口約15万人を有する宮城県北東部地域を代表する風光明媚な都市です。 伊達藩の統治下だった江戸時代には、北上川を使った水運交通の拠点に位置する「奥州最大の米の集積港」として、 全国的に知られた交易都市でした。
一年を通して比較的温暖な気候で、 世界三大漁場の一つである金華山沖漁場を背景に「漁業のまち」として発展を遂げ全国有数の漁獲水揚高を誇る一方、 「母なる川・北上川」のかんがい用水を活用した水稲生産を基幹に、 施設野菜や花きなどの園芸作物に加え、 肉用牛生産などの畜産経営を組み合わせたバランスのとれた高度な複合経営農業を展開しています。
豊かな自然の恵みによってもたらされる地場産品の中でも特に、 世界の約八割が石巻にルーツがあるといわれている食用牡蠣や金華ブランド(金華さば、金華かつお、金華ぎん)など、 四季折々の旬の食材が堪能できる豊富な魚介類は、食通をも唸らせるほどの自慢の逸品です。
現在の中瀬
現在の中瀬
1973(昭和48)年の中瀬
1973(昭和48)年の中瀬

豊穣(ほうじょう)のまち

世界三大漁場に数えられる”金華山沖“

世界中で特に漁獲量の多い優良な漁場であることから「世界三大漁場」と呼ばれている海域があります。 その漁場は、ノルウェー沖、カナダ・ニューファンドランド島沖、そして金華山沖とされています。 金華山沖では親潮(寒流)と黒潮(暖流)がぶつかって潮目ができ、たくさんの種類の魚の群れが集まってきます。 そこで獲れた魚の多くが石巻魚市場に水揚げされているのです。 また独特の地形であるリアス式海岸は海の間近まで山地が迫っており、 森のミネラルをたっぷり含んだ山水が絶えず海へ流れ込んでいます。 それが海水と混ざり合うことによって植物性プランクトンが豊富になり「かき」「ほたて」「ほや」など質の良い海産物が育つのです。
石巻魚市場全景
石巻魚市場全景
港側からの石巻魚市場
港側からの石巻魚市場
場内の様子
場内の様子
水揚げの様子
水揚げの様子
並べられた魚
並べられた魚

北上川が育んだ豊かな農産物

石巻地域は比較的温暖な気候であり、 北上川によって育まれた肥沃な土壌とたくさんの栄養分を含んだ水が豊富に流れるなど、 恵まれた環境になっています。 その環境を生かしてササニシキをはじめとする米や、 ねぎ、ほうれん草、トマト、きゅうり、いちごなどの数多くの野菜や果物が作られており、 味も生産量も国内トップクラスのものばかりです。 また桃生(ものう)地区では、東北では珍しくお茶の生産が盛んで「桃生茶」として親しまれています。 それが海水と混ざり合うことによって植物性プランクトンが豊富になり「かき」「ほたて」「ほや」など質の良い海産物が育つのです。
平野部に広がる田園
平野部に広がる田園
たわわに実ったトマト
たわわに実ったトマト
みずみずしいキュウリ
みずみずしいキュウリ

萬画(まんが)のまち

一九九五(平成7)年に石ノ森先生が石巻を訪れる機会があり、その際に当時の市長と会談を行いました。 当時の石巻は産業衰退、人口減少等の問題を抱えていました。 そこで石ノ森先生から「マンガを活かしたまちづくり」の提案を受け、 石巻を元気にするための新たな取り組みとして「石巻マンガランド構想」がスタートしました。 二〇〇一年7月には、その中核施設となる石ノ森萬画館がオープンし、 さまざまな取り組みを通して全国に「萬画のまち・いしのまき」を発信しています。

石ノ森萬画館

石ノ森萬画館
石ノ森萬画館
仮面ライダーやサイボーグ009などの原作者として知られる石ノ森章太郎の作品展示を中心とした日本最大級のマンガのミュージアム。 館内には貴重な原画の他、石ノ森作品の世界を体感できる展示や体験アトラクション、オリジナルアニメの上映などがあり、 マンガファンならずとも楽しめる施設です。 開館10周年を迎えようとしていた2011(平成23)年3月、東日本大震災によって被災し休館を余儀なくされました。 しかし、全国のたくさんの方々からの支援や後押しを受け、2012(平成24)年11月17日に再開を果たしました。

JR仙石線マンガッタンライナー&石巻マンガロード

仙台から石巻まで直通運転をしているJR 仙石線では石ノ森キャラクターがラッピングされた「マンガッタンライナー」が運行中! また石巻駅から萬画館までの約1kmの「石巻マンガロード」では、キャラクターたちが迎えてくれるぞ!
マンガッタンライナー
マンガッタンライナー
マンガロードのキャラクターたち
マンガロードのキャラクターたち
がんばれ!!ロボコン
がんばれ!!ロボコン

石ノ森章太郎が生んだ石巻のヒーローシージェッター海斗

石ノ森萬画館では、シージェッター海斗の世界を堪能できる展示コーナーや 平成仮面ライダーシリーズを手掛けた制作陣とキャストによって実写化された「シージェッター海斗 特別編」を限定上映しています。 各種イベントでは海斗ショーも開催しています。キミも海斗に会いに行こう!!
シージェッター海斗
シージェッター海斗
シージェッター海斗ショーの様子
シージェッター海斗ショーの様子

MANGAあいランド「田代島」

コバルトブルーの海と豊かな自然に囲まれたMANGAあいランド(田代島)。 島内には、ちばてつや先生や里中満智子先生等がデザインしたネコ型ロッジとキャンプサイトがあり、 自然体験教室や家族連れに大人気。また田代島は「猫島」としても有名で、猫好きの方にもおススメのスポットです!
ネコ型ロッジ
ネコ型ロッジ
田代島の猫たち
田代島の猫たち

寄稿文

谷川彰英の地名でわかる石巻の魅力

地名からのメッセージ

皆さん一人ひとりに名前があり表情があるように、地名にもそれぞれ固有の表情があります。 学校のクラスには姓と名がまったく同じという友達がいたら混乱してしまいます。
地名の場合も同じで、近くに同じ地名があったら、どっちのことやらわからなくなってしまいます。 だから、皆さんが毎日使っている地名はもともと、その土地固有の特色ある意味を持っていたのです。
人の名前は亡くなってしまうと一般的には使われなくなってしまいますが、地名は人工的に改変されない限りその歴史を継続して今に至っています。
ところが長い年月を経るごとに、元の意味がわからなくなってきています。 そこに地名を研究する意義があると言えます。 私たちは今に残る古い地名からその土地の歴史や風土を明らかにすることができます。 その意味で、地名は人間の過去を探るための貴重な文化遺産なのです。
石巻市にもたくさんの地名が残っています。 その地名から石巻に残した古人のメッセージを探ってみましょう。 きっと石巻がもっともっと好きになることでしょう。

日和山(ひよりやま)

日和って天候のこと?

日和山から中瀬を望む
日和山から中瀬を望む
「日和」とは何?
日和山は石巻を代表するシンボルのような山です。 標高約60メートルの山頂からは太平洋を眺めることができ、また北上川を望むと、中瀬には石ノ森萬画館の丸いドーム状の建物が目に飛び込んできます。
でも、東日本大震災の際には多くの人々が逃れた山でもあり、山から見た惨状は今も片時も人々の眼から消えていません。
「日和山」という山は全国に80ヵ所以上もありますが、石巻の日和山はその代表的な日和山として知られています。 「日和」と書いて「ひより」と読みますが、これはどういう意味でしょうか?
「日和」とは実は「天候」のことです。 この山から天候を見たところから「日和山」という地名が生まれました。
昔は今のようにテレビやラジオの天気予報がなかったので、山の上から天候を占うことが普通でした。 これはとりわけ漁業に携わる人々にとっては死活問題だったのです。 天候の良しあしによって船を出すか出さないかを判断したということです。
東廻まわり航路の拠点として
川村孫兵衛の像
川村孫兵衛の像
近世(江戸時代)になって全国の米などの生産物を江戸や大坂に運ぶルートが整備されると、さらに日和山の機能は強化されていきました。 いわゆる東廻り航路は、日本海側の港を出て津軽海峡を経て東北地方を太平洋沿いに南下するルートで、石巻はこの航路の重要な拠点の1つでした。 それに対して西廻り航路は、大坂から瀬戸内海を経て、関門海峡を抜けて日本海沿いに東北に向かうルートでした。
このルートを使う商人たちにとっては、出航する際に、そのつど日和を見ることが必要だったのです。
石巻の日和山はその高さといい、港からの位置といい、その眺望の良さといい、全国の日和山で右に出るものはありません。
春には桜が見事に咲き誇り、市民の憩いの広場となっているのはご存知の通りです。 芭蕉も『奥の細道』でこの日和山に登っており、記念碑も建てられています。 その他、宮澤賢治、石川啄木、志賀直哉、斎藤茂吉などの文人も多く訪れています。
そして、本書でも取り上げられている北上川改修を成し遂げた川村孫兵衛(まごべえ)の像も建っています。
伊達政宗も注目!
石巻城址と書かれた石碑
ここに石巻城があった!
ここでもう1つ重要なことを知っておきましょう。 仙台藩をつくったのは伊達政宗ですが、政宗が支配する前は葛西氏という武士がこの地を治めていました。 この日和山はこの葛西氏の居城した所だと考えられています。写真の碑には「石巻城址」と書かれていますが、その歴史を示しています。
伊達政宗は今の仙台に城を築くまでは、豊臣秀吉の命により岩出山(いわでやま)城(現大崎市)に12年ほど仕置かれていました。
秀吉が亡くなったことをきっかけに仙台附近に城を構えようとした際、いくつかの候補地を挙げたのですが、その中にこの日和山も入っていたのです。 政宗から見てもこの日和山は魅力ある山だったということがよくわかります。

北上川

もとは日高見川だった!

東北を代表する大河 北上川
東北を代表する大河 北上川!
日高見神社入口
日高見神社入口
日高見神社社殿
日高見神社社殿
北上川は、岩手県と宮城県を縦断し、ご存知のように石巻で太平洋に注いでいます。 その長さは約249キロメートルで全国5位、流域面積1万150平方キロメートルで、こちらは全国4位の大河です。
北上川という名称が最初に確認されているのは『吾妻鏡(あづまかがみ)』という鎌倉時代の本で、文治元年(1189)の記述に「北上河」と書かれています。 800年以上も前にこの川の名前があったことになります。
それ以前は「日高見川」と呼ばれていたようです。 平安時代の『日本三代実録(さんだいじつろく)』という本には「日高見水神」という言葉が見え、これが「日高見川」を守る神様だと考えられています。
実はこの北上川を守る神社は旧桃生町にある「日高見(ひたかみ)神社」だと言われています。 「北上川」の名前のルーツになったのは皆さんの住んでいる石巻にあったというわけです。
場所は石巻市桃生町太田というところです。 写真で見るように古い石の階段が残っており、そこから少し上ったところに社殿があります。
「北上川」という川の名前は「日高見川」が転訛(てんか:変わること)したものと考えられています。 「ヒダカミ・ヒタカミ」が「キタカミ」に変わったというのはあり得る話です。
この日高見川があった地域のことを「日高見国(ひたかみのくに)」と呼んでいたようです。 奈良時代に書かれた我が国最初の歴史書と言われる『日本書紀』の中に「東の田舎のほうに、日高見国という国がある。 その国の人々は男も女も髪を分けて刺青(いれずみ)をし、勇ましくたくましい蝦夷(えみし)と呼ばれている」と書かれています。
日高見国についてはいくつかの説がありますが、ほぼ今の東北地方と考えていいでしょう。
この日高見神社の附近には古代の城柵(じょうさく:とりで)となった桃生(ものう)城跡があります。

石巻

巻石(まきいし)伝説の前に・・・

津波でも残った石巻石
津波でも残った石巻石
「伊寺水門」から「石巻」へ
石巻は広大な仙台平野の東に位置し、北から北上川・迫(はさま)川などが流れ込む水郷地帯でした。 北上川の洪水を防ぎ新田開発をするために北上川の流れを東に付け替えたことはよく知られていますが、 今でも旧北上川は石巻の中心街に注いでいることは言うまでもありません。
昔は物資を船で運びましたので、川が海に流れ込む位置にある石巻が湊として栄えてきたことはよく理解できるでしょう。 この湊は昔は「伊寺水門」(いじのみなと・いしのみなと)または「牡鹿湊」(おしかのみなと)と呼ばれていたようです。
栗駒高原から登米市を通って流れてくる迫川は、昔は「伊寺川」「伊治川」と呼ばれていたようで、 その河口の港だったことから「伊寺水門」と呼ばれていたとのことです。
この「伊寺水門」が転訛して「石巻」になったというのが有力な説です。 「伊寺」が「石」に変わったということですが、このようなことは地名の歴史の中ではよくあることです。
地名の意味を考える時重要なことは、漢字にとらわれないことです。 「伊寺」「伊治」の漢字に特別の意味はありません。 漢字をあてはめたにすぎず、昔の人は「イジ川」「イシ川」と言っていたのでしょう。
水難の神様 大島神社
水難の神様 大島神社
「石巻石(いしのまきいし)」
この湊の地を「石巻」と呼ぶようになったのは江戸時代になってからの寛永(かんえい)年間(1624~1644)以降のこととされています。 この「石巻」という地名になった理由として、『封内風土記(ほうないふどき)』 (仙台藩が編纂した地誌で安永(あんえい)元年・1772年完成)におよそ次のように書いてあります。
――川の中に高さ6尺(180センチ)、東西9尺(210センチ)、南北3尺8寸(114センチ)の石があり、地元の人は「石巻石」と呼んでいる。 古来伝えられた説によれば、住吉社の前に巨石があり、形が烏帽子に見える。 その石の周りに水の渦が回って自然の紋ができ物を巻いたように見えるところから「石旋(イシノマキ)」と呼ばれるようになり、そこから地名が生まれた――。
住吉公園の前に今もその石は残されていますが、東日本大震災の津波で写真のように松の木は枯れてしまっています。
「住吉社」は正式には「大島神社」という名前で、すでに平安時代にあったことが確認されています。 地元では住吉大明神と呼ばれ水難防止の神様として信仰を集めています。
いずれにしても、石巻の由来は「伊寺水門」と呼ばれていたところに、「巻石(まきいし)」の話が重なったと考えていいでしょう。
またここには「袖の渡り」という源義経伝説が残されています。 義経が追われて奥州平泉に逃れる途中、ここに立ち寄り船賃の代わりに着衣の片袖をちぎって船頭に与えて対岸に渡してもらったという話です。 当時は橋がなく、川を渡るには舟で渡るしかなかったのです。
「牡鹿湊」の意味
ところで、冒頭で今の石巻は「伊寺水門」あるいは「牡鹿湊」と呼ばれていたと書きました。 なぜ「牡鹿湊」と呼ばれていたのでしょう。
江戸時代、この地は「石巻村」と呼ばれていましたが、石巻村は牡鹿郡に属していました。 その牡鹿郡を代表する湊ということで「牡鹿湊」と呼ばれていたのです。
明治22年(188 9)「石巻村」「門脇村」「湊村」が合併して「石巻町」が成立しましたが、この「湊村」の地域が「牡鹿湊」だと言われています。

鋳銭場(いせんば)

貨幣を造った

鋳銭場の跡の神社
ここで昔、貨幣を鋳造していた!
石巻駅の東側に今も「鋳銭場(いせんば)」という町名が残っています。 これは石巻の歴史を物語る貴重な地名です。
ここは江戸時代に貨幣(銭)を鋳造(ちゅうぞう)していたところです。 鋳造とは、金属を熱で溶かして鋳型(いがた)に流し込んで器物(きぶつ)を作ることで、石巻は全国でも数少ない貨幣を造る拠点でした。
江戸時代に地方の藩で鋳銭を許されたのは水戸・仙台・松本などいくつかの藩に限られていました。 仙台藩は東北を代表する藩だったということでしょう。
江戸幕府は寛永36年(1636)「寛永通宝(かんえいつうほう)」という貨幣の鋳造を江戸と近江国(今の滋賀県)の坂本で開始しました。 翌年には水戸藩・仙台藩などで鋳造を始めています。 仙台藩では栗原郡三迫で造られ2年間ほど続いたようです。
石巻に鋳銭場が設けられたのは享保(きょうほう)12年(1727)のことで、翌年から寛永通宝の鋳造が始まりました。 仙台藩が造ったことを示すために貨幣の裏に「仙」「千」の文字を入れたものも造られました。
石巻に鋳銭場が置かれたのは、原材料、燃料、製品を運ぶのに便利だったことによっています。 このことを見ても、いかに石巻が仙台藩の中で重要な位置を占めていたかが理解できるでしょう。
天保(てんぽう)8年(1837)の平面図によれば、石巻の鋳銭場の敷地は百間(約180メートル)四方もあったといわれています。 貨幣を造る場所としては信じられない広さですね。 中には銭炊き炉の工場を始め、数十棟の建物が建ち並んでいたということです。
ここでは仙台藩だけで通用する「仙台通宝」という貨幣も造られ、仙台藩の財政を支えました。 ここで使われていた釜の1つが塩竈神社の境内に保存されているとのことです。
鋳銭場の跡は今は写真で見るように、小さな神社が残されているだけですが、石巻の歴史を残す遺跡として地名とともに大切に保存していきたいものです。

万石浦界隈

万石浦(まんごくうら)

お米が獲れる

万石浦の夕景
万石浦の夕景
「万石」とは何?
「万石浦(まんごくうら)」とは何とも豊かなイメージの地名です。 皆さんは石巻に住んでいるから「まんごくうら」と読めるでしょうが、他県に住んでいる人には読めないでしょう。
「万」は1万、2万の「万」ですからわかりますが、「石」はちょっとやっかいです。 「いし」と読まず「こく」と読むのはなぜでしょう。
よく歴史の中で藩の大きさを表す言葉として「5万石」「10万石」ということがあります。 それは「石高制(こくだかせい)」といって、その土地の生産量を指した言葉です。 仙台藩は62万石でしたから、全国でも屈指の大きさを誇った藩でした。
「石」は体積の基準となる単位で、1石は10斗(1斗は10升)に相当します。 つまり、1石は一升瓶100本分に相当する体積ということになります。まずこのことを理解しておきましょう。
「一万石収穫できる!」
言い伝えによると、仙台藩二代城主の伊達忠宗公がこの地に寄った際「ここを干拓すれば一万石の米が収穫できるであろう」と語ったことが、 「万石浦」という地名の由来だとのことです。
伊達忠宗は政宗の次男で伊達の家督を相続することになった人物で、「守成(しゅせい)の名君」と呼ばれました。 「守成」とは「創業の後を受けて、その事業をかため守る」ことを意味しています。 簡単に言うと、初代政宗が興した事業を受け継ぎしっかり固めたということです。
とりわけ忠宗公は寛永総検地を実施し、土地制度を全国標準に合わせる努力をしたことで知られています。 詳しいことは調べてみてください。 いずれにしても土地制度に力を尽くした忠宗公であったからこそ、この海を見て「1万石収穫できる」と読んだのでしょう。
結果的にはこの海は干拓されることなく、塩田をつくって塩を生産するなど仙台藩の重要な塩供給地としての役割を果たしてきました。 現代では牡蠣(かき)や海苔(のり)の養殖の場として利用されています。
万石浦を望む
万石浦を望む
「奥の海」
皆さんよくご存知のように、万石浦は石巻市の中心街の東に位置する大きな入り江です。 もとは海だったのですが、土地が隆起して海と別れたかたちになっています。
表の海とは万石橋の地点でつながっていますが、東日本大震災の時はこの橋のお蔭で津波の被害を最小限に抑えることができたそうです。
東西約5キロ、南北約3キロのこの入り江は昔から「奥の海」と呼ばれ、古くから和歌に詠まれてきました。 和歌に取り上げられる名所・旧跡のことを「歌枕(うたまくら)」と言いますが、「奥の海」という歌枕はこの万石浦だという説が有力です。

渡波(わたのは)

塩をつくる

昭和25~26年頃の塩田
昭和25~26年頃の塩田
万石浦の西側に「渡波」という町名があります。「渡波」と書いて「わたのは」と読みますが、これは全国的に見ても興味深い地名です。 「渡る波」ですから、何となくわかるような気もします。 とにかく平らで波が打ち寄せている所で、波を渡っていく所といったイメージがあります。
地名の由来は後で説明することにして、まずはこの地が塩を作る塩田だったという話をしましょう。
江戸時代になって寛永3年(1626)から15年(1638)にかけて仙台藩はこの地に「入り浜式塩田」を開発しました。
塩は人々の生活には必需品ですから、大昔から塩は作られてきました。 古代では「藻塩焼(もしおやき)」という製法がとられ、海水のついた藻を天日で干し、煮詰めていく手法でした。 それに対して入り浜式というのは、塩田に潮の干満を利用して海水を引き入れ太陽と風で乾燥させて塩を採るというものです。
この手法を導入したのは流留村の菊地与惣右衛門(よそうえもん)という人物で、 下総国行徳(ぎょうとく)(現・千葉県市川市)でこの入り浜式塩田を見て、仙台藩でもぜひ作りたいといって藩の許可を得て始めたものでした。
塩田の北側は「流留組」、南側は「渡波組」と呼ばれていましたが、 次第に渡波組のほうが盛んになっていき、塩田というと渡波と言われるようになったようです。
さて、この「渡波」の由来です。 「安永風土記御用書出(あんえいふどきごようかきだし)」という江戸時代の資料に、 奥の海の入り江口に位置し、渚が自然に干潟陸地となったところから「波打渡之跡村(なみうちわたしのあとむら)」と呼んでいたが、 この地名が余りにも長いので「渡波」というようになった、と書いてあります。 意味としては「打ち寄せる波を渡っていく村」程度に理解しておいていいでしょう。
「渡(わた)」は単純に「渡る」の意味でしょうが、アイヌ語で「入り江を渡る」ことを「ワッタリ」というので、それに由来するという説もあります。 また「海」のことを「ワタ」というので、それに由来するという説も可能です。 「波」は単純に音読みにしただけでしょう。

流留(ながる)

流れ着いた?

厳島神社
厳島神社
「流留(ながる) 」という地名には面白い伝説があります。右に紹介した「安永風土記」には2つの説が紹介されています。
一つは、入海の中に弁財天堂が建つ島があるが、この弁天様が大海(外の海)から流れ来たことによって流留という地名がついたという説。 二つ目は、「朝日天女」と申す御方(おかた)が空舟(うつおぶね)に乗って流れ来たが、 取揚坂(とりあげさか)という所に流れ着いたところで亡くなってしまったので取揚塚として葬った、という話から流留という地名ができたという説です。 空舟というのは、一本の木をくりぬいて作った舟のことで、人や仏様が漂着するといった伝説に登場する舟のことです。
写真に見る厳島(いつくしま)神社は昔あった弁財天堂の跡に建てられたものと言われています。

五十五人(ごじゅうごにん)

足軽(あしがる)がやってきた

「五十五人」のバス停
「五十五人」のバス停
「五十五人地区」を示す看板
「五十五人地区」を示す看板
石巻市内に面白い地名を発見しました。 おそらく市民の皆さんの中でも知っている人は少ないでしょう。 「五十五人」という地名で、読み方も「ごじゅうごにん」とそのままです。
平成17年(2005)、1市6町が合併して新しい石巻市がスタートしましたが、この珍しい地名は旧河北町にあります。 郵便番号がつく正式な行政地名ではありませんが、地元では「五十五人地区」と呼んでいます。
地図上に載っているものだけを地名というのではなく、地元の人々の間だけで使われているものも立派な地名なのです。 むしろそのような小さな地名にこそ価値があると言ってもいいでしょう。
石巻線の鹿又駅(かのまた)のすぐ北を旧北上川が流れていますが、その対岸の上流に五十五人地区がつながっています。 現在の正式な住所では次のようになっています。
  • 石巻市小船越字大縄場(おおなわば)
  • 石巻市小船越字町屋敷
  • 石巻市小船越字上屋敷 など
地元の方に訊いたところによると、昔ここに足軽が五十五人やってきて開発したことによるとか…。 これは面白い! と思って、長く石巻市役所に勤められてきた星雅俊さんに聞くと、星さんのお宅にそのことを書き記した資料があるというのです。 早速拝見することにしました。
星さんの祖先に当たる星對馬(つしま)についておよそこう書かれていました。
―――もと葛西(かさい)氏の家臣で、天正(てんしょう)18年(1590)葛西氏が滅亡した後浪人していたが、 万治(まんじ)元年(1658)伊達氏が出した新田開発令に応じ桃生郡小船越(こふなこし)村の内下高須(しもたかす)の開拓に功を成したので、 小船越五十五人足軽頭に任ぜられた―――。
五十五人の足軽がこの地を開拓した歴史がよみがえるようです。
旧北上川に沿った堤防の上を走る道路に写真に見るようなバス停が今もあります。 下流から「五十五人」「五十五人中」「五十五人上」となっています。
全国に数字をつけた地名はたくさんありますが、この「五十五人」は飛びぬけて面白い地名の1つです。 例えば東京の新宿区に「百人町」という地名がありますが、これは江戸時代に鉄砲百人組が置かれた所として知られています。 これは江戸という街に置かれたことで納得できますが、「五十五人」というのは街でもない所にあること、 それに「五十五人」という何かこだわりを感じさせる数字なのが面白いですね。
石巻市としても大事にしたい地名の1つです。

北上川のヨシ原

広がるヨシ原
広がるヨシ原
北上川の河口にヨシ原が広がっているので、ぜひ見てほしいと言われました。 初め聞いた時は「ヨシ?ああ、あの葦(アシ)のことですね」という程度の反応しか返せませんでした。 実際、ヨシが広大に広がっている光景など見た経験がなかったからです。
三輪田(みのわだ)から北上川の河口に至るまで川沿いに車で走り、そのヨシ原を目の当たりにして静かな感動が走りました。 河川敷の中にまるで絨毯を敷いたようにヨシ原が続いています。 夏には青い絨毯に変身するようです。真冬だったので、ちょうど刈取りの作業が行われていました。
このヨシ原は環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれていて、 風にそよぐヨシの音色、そしてこの群生地に憩うオオヨシキリ・コヨシキリなどの鳥が鳴き交わす音が見事なハーモニーを奏でるようです。
そう言えばヨシキリは漢字では「葦切」と書いて、ヨシ原に住む鳥のことです。
今では「葦」という字は「ヨシ」とも読みますが、「アシ」とも読みます。 「ヨシ」と「アシ」は同じもので、イネ科の多年草(二年以上生育する草)です。 今では「ヨシ」と呼ぶのが普通になっていますが、古い昔は「アシ」と呼ばれていたようです。 日本の国のことを大昔は「豊葦原(とよあしはら)」と呼んでいたことがあります。 「葦が豊かに広がっている国」という意味です。
でも、「葦(あし)」という呼び方は「悪(あ)し」つまり「悪い」という意味につながるので、「葦」を「ヨシ」と読むようになったと言われています。 これも日本語の面白さの1つです。
東日本大震災によってこの地域でも地盤沈下と津波の影響でヨシ原は半分以上も消滅してしまったと言われます。 新北上大橋の麓にあった大川小学校は、多数の児童と教員を津波で失うといった悲劇を生んだ場所として永遠に忘れることができない存在です。
日本でも珍しい風物詩として知られるこのヨシ原を石巻の宝として保存していきたいものです。 そう、「葦(あし)」を「葦(よし)」に読み変えたように!

コラム

釣石(つりいし)神社

釣石
→の高さまで津波が押し寄せたという。
「日和」とは何?
ヨシ原の先の追波湾の入り口に釣石神社があります。 「追波(おっぱ)」という変わった地名について、神社の由来に「藩祖伊達政宗公が当地方巡視された際、 社側の丘に登って四方を眺望し波の追い来たりを御覧になって『追波』と改称したという」と書かれています。
写真で見るように巨大な石が釣り下がっており、落ちそうで落ちないという縁起をかついで、受験や縁結びなどの神様として信仰されているようです。

牡鹿半島の浜

「牡鹿(牡鹿)」という地名

「牡鹿」という地名が文献上初めて登場するのは天平9年(737)のことで、「牡鹿の柵(さく)」があったことがわかっています。 当時大和朝廷は蝦夷(えみし)と戦っており、いくつかの柵を作っていましたが、「牡鹿の柵」はその1つでした。 それがどこにあったかはよくわかっていません。
しかし、今から1300年近く前から「牡鹿」という地名はあったことは確かで「牡鹿郡(おしかのこおり)」と呼ばれていました。 もちろん皆さんの住んでいる石巻も牡鹿郡に属していました。
「牡鹿」という地名には次のような伝承があります。
―牡鹿郡根岸村に1本の松の木があったという。 その昔、牡鹿は常に牝鹿(めじか)を伴っていたものだが、ある日牝鹿を失って牡鹿は鳴きやまず、ついにその牡鹿は亡くなってしまった。 村人はそこに松を植えたが、その松の下にあった石を鹿石と呼んだ。そこから郡の名前も牡鹿郡と呼ぶようになった―。
こんな話が残っているところを見ると、やはり牡鹿半島は鹿にちなんでいるようです。
仙台から石巻を通って牡鹿半島の西側を南下して金華山に至る街道は金華山道(きんかさんどう)と呼ばれ、昔から金華山に参拝する人々で賑わいました。 その金華山には昔から多くの鹿が生息しており、今も参拝者を迎えてくれます。

月浦(つきのうら)

船が着いた?

月浦の夕景
月浦の夕景
支倉常長の像
支倉常長の像
「日和」とは何?
この牡鹿半島には「桃浦(もものうら)」「月浦(つきのうら)」「鮫浦(さめのうら)」「福貴浦(ふっきうら)」のように「浦」のつく地名がありますが、 その他はほとんど「荻浜(おぎのはま)」「鮎川浜」のように「浜」地名がつながっています。 全国的に見てもこれだけ「浜」地名が連なっているのは珍しいことです。
「浦」地名では、何といっても「月浦」が美しい上に歴史のドラマを感じさせてくれます。 全国的に見ても「月」のつく地名はたくさんありますが、いずれも「お月様」とは無縁です。 太陽や月は地球全体のものであって、ある特定の地域に限定されるものではないからです。
ですから「月」という地名には何かが隠されていると考えられます。 一般には「槻(つき)の木」に由来するものがほとんどです。 「槻」というのはケヤキの木の昔の名前です。 だから「大(月)槻」という地名は「大きなケヤキの木」があった所という意味になります。
ところが、この「月浦」はそれとは違う意味から生まれています。
『宮城県地名考』という本によると、月浦の地名にはこんな歴史があったということです。
―その昔、葛西清重らが鎌倉から奥州へ帰る途中暴風に遭った時、 一羽の鳥が現れその鳥を追っていったところ無事陸地に着くことができたので、 その浜を「着きの浜」と呼び、それがやがて「月の浦」と書くようになった。 またその船から大勢の武者が上陸したので「侍浜(さむらいはま)」と呼んだ―。
これは伝承なのでそのまま歴史的事実とは考えられませんが、要は史実であったかどうかではなく、このような伝承が今に残っているという事実です。
実際、「月浦」の隣りには今も「侍浜」があるのです。 船が「着いた」ことから「着く」「月」に変えていったというアイデアそのものを大切にしたいものです。
このような伝承が生まれた背景には、この月浦は慶長(けいちょう)18年(1613)に支倉常長がローマに渡った際ここから出発したとも、 「サン・ファン・バウティスタ号」という船を建造した場所だという話も伝えられています。 写真で見るように月浦は波静かな浦で、船を造るには好適な場所だったのでしょう。
高台には支倉常長の像も建てられています。

十八成浜(くぐなりはま)

九+九=十八?

十八成公園
十八成公園
十八成浜
わずかに残された十八成浜
牡鹿半島にはもう1つ面白い地名があります。 捕鯨漁の基地として昔から有名な鮎川浜の手前にある十八成(くぐなり)浜です。
ここはかつては美しい浜が入り江をつくり、夏には1万人もの海水浴客で賑わっていたのですが、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けました。 震災の影響で地盤が1メートル弱も沈下し、広く広がっていた浜も海面下に消えてしまい、今はそのほんの一部が残っているだけです。
でも石巻市ではこの浜の再現に取り組み、2019年度には浜を造成し海水浴客の憩いの海浜公園を整備することになっているとのことです。
この「十八成浜」は「鳴り浜」として昔から注目を集めていました。 「鳴り浜」とは、足で歩くと「クックッ」と音がするという浜のことです。 世界的にもこのような鳴り浜は、中国の敦煌(とんこう)やバイカル湖の砂浜などにあるようです。 日本ではこの十八成浜の他に、気仙沼市の大島にも「十八鳴浜(くぐなり)」があります。 気仙沼では「鳴」を使い、石巻市では「成」を使っていますが、同じことです。
面白いのは、「クックッ」という音を「九+九」で「十八」と表記していることです。 これは昔の人のアイデアであると同時に知恵と言っていいでしょう。 こんなユーモアを理解するのも歴史の勉強の1つです。

金華山(きんかさん)

最初に金が採れた?

展望台から見た金華山
展望台から見た金華山
網地島の夕景
船から見た金華山
船から見た金華山
御番所(ごばんしょ)公園から
友人にせかされて高台の展望台に急ぐ。 もうすぐ日暮れで太陽は網地島(あじしま)の向こうの海に沈もうとしている。
車を捨てて展望台まではほんの100メートル、一気に駆け上って後ろを見ると、真っ赤な太陽が細長く横たわる網地島の向こうの海に沈もうとしている。 右手にはマンガアイランドで有名な田代島が続いている。 「あれが石巻の街ですよ。日本製紙の煙が見える…」
友人が右手を遠くに向けながらそう言った。
そして眼を戻すと、すぐ手にとるように金華山が一望できる。 見事な風景だ。海が180度どころか300度近くまで手に取るように視界に入る。 日本でもこんな景色を楽しめるのはそう多くないはずだ。
惜しまれる夕陽を浴びて、金華山(きんかさん)はその名のように黄金色に輝やいていた――。
これは取材に行った時のことを私が書いたものです。 牡鹿半島の突端にこんな素敵な感動的な場所があることを初めて知りました。 石巻市の名所としてもっともっとアピールすべきだとも考えました。
昔から捕鯨漁の基地として知られる鮎川から5分程車で行ったところにあります。 また鮎川からは船で金華山にも渡ることができます。
そういえば、この展望台の下から金華山の島までは直線距離にして2キロあまりあるのですが、 3・11の地震の際、海面が割れて地続きになった直後、分かれた波がぶつかって30メートル以上にもなったという話を何度も伺いました。 信じられない話ですが、それだけ地震が大きかったということでしょう。
黄金山神社の社殿
黄金山神社の社殿
黄金山神社の鹿
黄金山神社の鹿
日本で最初に採れた金
さて、この金華山には黄金山(こがねやま)神社という古い神社があり、 昔は恐山(青森県)・出羽三山(山形県)とともに、奥州三霊場の1つに数えられていました。
金華山といい、黄金山神社といい、何やら「金(きん)」にまつわる名前であることに特徴があります。
話は遠く奈良時代にさかのぼります。
皆さんは歴史の教科書で奈良時代に聖武天皇が奈良の大仏を造ったということはよく知っていることでしょう。
聖武天皇が大仏造立(ぞうりゅう)の命を出したのは天平(てんぴょう)15年(743)のことで、 それから9年後の天平勝宝(しょうほう)4年(752)に大仏開眼(かいげん)供養が行われました。
ちょうど、この大仏を造っている間に奥州から金が採れたという情報が伝わってきました。 そのことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』という奈良時代の歴史を書いた本の中に書かれています。 聖武天皇が天平勝宝元年(749)四月一日、天皇が大仏(盧舎那仏:るしゃなぶつ)の前でこう述べさせたと書かれています。 「この大倭国では天地の開闢(かいびゃく)以来、黄金は他国より献上することはあっても、この国にはないものと思っていたところ、 統治している国内の東方の陸奥国の国守である、従五位の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が、 管内の小田(おだ)郡に黄金が出ましたと申し献上してきました。 これを聞いて天皇は驚き貴(とうと)んで思われるに、これは盧舎那仏がお恵み下さり、祝福して頂いた物であると思い、 受け賜わり恐(かしこ)まっていただき、百官の役人たちを率いて礼拝してお仕えすることを、 口に出すのも恐れ多い三宝の御前に、かしこまりかしこまって申し上げますと申します」
それまで日本では金が採れないとされており、大仏を造るに当たっても、必要な金は外国から取り寄せていたようです。 同年四月二十二日には、百済王敬福が黄金九百両を届けたとあり、その金を使って大仏を完成させたとのことです。
天皇はそのことを大そう喜び、元号を「天平勝宝」としたということです。
黄金山神社の謎
ただし、この金を届けたのは小田郡ということで、今の牡鹿郡の金華山ではありませんでした。
当時の小田郡というのは今の遠田郡涌谷町(わくやちょう)から大崎市東部あたりで、今も涌谷町に黄金山神社があり、そこが金が採れた場所だとされています。
ところが、江戸時代になると、金華山の黄金山神社が金を生んだ神様として有名になって多くの信者を迎えることになったようです。 その辺の経緯はよくわかっていませんが、とにかくこの宮城県から日本で初めて金が採れ、それが奈良の大仏を完成されたことは事実で、 そのことは石巻市民として心にとめておいていいことです。
もともと金(きん)の神様であったことから、この神社に「3年続けてお参りすれば、一生お金かねに困ることはない」と伝えられています。

石巻市の変遷

石巻市の変遷

石巻市の皆さんへ

石ノ森萬画館設置のお手伝いをするようになってから、数えきれないほど石巻にお邪魔しました。 そのつど、多くの仲間たちと美味しい食べ物に迎えられ、いつしか石巻は私にとって第2・第3の故郷になっていました。 ところが、突然襲ったあの悪夢のような3.11の震災……。 連絡が取れず眠れない日々が1週間も続きました。 でも5 年経って石巻はよみがえりましたね。 その勇気と努力と人を信じる誠実さに心から敬意を表し、応援のメッセージを贈ります!
I love Ishinomaki. We love Ishinomaki.
そして、頑張ろう 石巻!
谷川彰英
PROFILE [たにかわ あきひで]
1945年長野県松本市生まれ。 筑波大学教授、理事・副学長を経て現在、ノンフィクション作家 筑波大学名誉教授 博士(教育学) マンガジャパン理事 日本地名研究所所長、地名に関する著書多数。

漫画家プロフィール

左近士諒
【左近士 諒・さこんじりょう】
1947年9月22日生まれ。大分県出身。 1972年、「ピンキーターゲット」(『別冊漫画ストーリー』)にてデビュー。 代表作「パチンカー人別帳」(原作:牛次郎)、「俺の剣道」(原作:林律雄)、「銀輪ジャガー」(原作:史村翔)、「示談屋」(原作:倉科遼)など。 また、「殺てもうたれや」(原作:山ノ内幸夫)が1997年、東映で「恋極道」として映画化となる。 その後、「戦国武将列伝」などを執筆。現在、大阪芸術大学にて教鞭を執っている。
ねもと章子
【ねもと章子・ねもとあきこ】
6月14日生まれ。千葉県出身。 1984年、「翼がくれた夢」で白泉社第9回アテナ新人大賞にて新人賞受賞。 1986年、「1911年のセルフスターター」が秋田書店Candle 漫画賞受賞、同誌でデビュー。 代表作は「ヘルメスの翼のもとに」「レートルシリーズ」「シャーロック・ホームズ~ 緋色の研究」など。 現在、大阪芸術大学キャラクター造形学科講師を務める。
たなか亜希夫
【たなか亜希夫・たなかあきお】
1956年生まれ。宮城県石巻市出身。 1982年、「下北沢フォービートソルジャー」(『ヤングコミック』)にてデビュー。 代表作は「迷走王ボーダー」(原作: 狩撫麻礼)、「かぶく者」(原作:デビッド宮原)、 「ア・ホーマンス」(原作: 狩撫麻礼)、南回帰線(原作: 中上健次)、「軍鶏」、リバースエッジ 大川端探偵社(原作:ひじかた憂峰)など。
山田ゴロ
【山田ゴロ・やまだごろ】
1952年12月23日生まれ。岐阜県出身。 高校時代から地元の新聞等に投稿。 漫画家を目指し、漫画家・中条けんたろうに師事。 その後、「人造人間キカイダー」「イナズマン」「がんばれ!! ロボコン」「秘密戦隊ゴレンジャー」「仮面ライダー」等の石ノ森章太郎原作作品を多数手掛ける。 代表作に「おとこゴン太」「恐竜のふしぎ」(構成:佐伯誠一)など。
木村直巳
【木村直巳・きむらなおみ】
1962年(昭和37年) 9月17日東京生まれ。 1978年15歳で朝日ソノラマの「月刊マンガ少年」新人賞で佳作入選、同誌に受賞作「最後の妖精」が掲載されデビュー。 代表作には「ダークキャット」、「イリーガル」、「監察医朝顔」を始め、第7回文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞した「てんじんさん」等多数。 現在マンガジャパン・漫画家協会に所属。
三浦みつる
【三浦みつる・みうらみつる】
1954年、神奈川県出身。 1971年、高校在学中に「世にも不幸な男の話」でヤングジャンプ賞を受賞。 手塚プロダクションのアシスタントを経験し、1973年に「さまよう箱は」、1975年に「僕は狂わない」で、それぞれ手塚治虫賞佳作を受賞。 1983年に講談社漫画賞を受賞した「The かぼちゃワイン」は、アニメ化され大ヒットとなる。 代表作に「ココナッツAVE.」「明日美」「コンビにまりあ」「天才調香師 宝条ミカ」など。

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監修にあたって

宮城学院女子大学学長 東北大学名誉教授

平川 新

本書をお読みいただきありがとうございます。
さて、皆さんは”歴史”と聞いて何をイメージしますか?
学校で学んだ社会科や歴史の授業、自身の家系や生い立ち、 住んでいる「まち」が歩んできた歴史、あるいは偉人、大河ドラマ、戦国BASARAなど・・・。 テーマによっては壮大なものから身近なものまであるでしょう。 それぞれ関心を寄せるジャンルを通して、学んだり調べていくと、 思わぬ発見があってちょっとワクワクしたり、 当時の人たちのことを想像して感傷的になったりするかもしれません。 一言で”歴史”と言って片付けてしまうにはあまりにも奥が深く、 私たちの今の生活とも密接な関わりがあることに気づかされます。
世の中に歴史を語る書籍は数多くありますが、 世代を越えて誰もが親しめるマンガを使って地域の歴史を紹介している書籍は、 さほど多くはないと思います。
石巻は「萬画のまち」としてマンガを活かしたまちづくりに力を入れており、 その中核施設として宇宙船をイメージした「石ノ森萬画館」がありますので、 地域の歴史をマンガで描いたとしても、あまり不思議に思う人はいないと思います。
この本は、ただ単に地域の歴史をマンガにしただけではなく、 小中学生でも分かりやすく、これまでの歴史書以上に理解ができるように構成されています。 マンガを使うことで、これまであまり歴史に関心が持てなかった人でも、 なんとなく手にとって読んでみようという気になったり、 子どもたちでも、その時代時代のイメージをリアルにふくらませることができる、 そんな効果を期待しています。
この本を読むと、石巻では過去にどんな出来事があったのか、 タイムトンネルをくぐったように時代のイメージを楽しくつかみ取ることができます。 マンガのせりふからも、その時代の登場人物たちの考えていることがわかるような、 そんな作品に仕上がっています。また、特集として石巻の地名に関するコラムもあります。
本書には、普段の生活では特に意識することもない先人たちの郷土に対する想いや、 後世に語り継がれるべき逸話等を収めています。 この本をとおして、郷土に対する愛着や誇りがより一層強まるのではと期待しています。 特に、次の世代を担う子どもたちには、 「自分たちの住んでいる石巻はこんなに魅力的なまちなんだ」という想いを持ち続けて欲しいと願っています。
最後に、今回「マンガで知ろう石巻史」の刊行にあたり、 熱心な取材を行って頂きました漫画家の先生方をはじめ、 谷川先生、地元関係者などの皆様に御礼と感謝を申し上げます。